今回は自分宛。
隠すのはもうあんまり意味ないのでね。トラウマの連鎖。

私は自分を客観視できないままに、およそ十八年を生きてきました。
大人とは、きっと自分に他者を抱くことで。いつまでも子供のままで。
ひどく悲観も、ひどく自尊も、ひどく卑下も、ひどく閉鎖も、ひどく秘密も。
秘密主義は父親からの遺伝ではなく、同じ傷の場所です。
ただ曖昧に、それに与える定義は常に嘘でしかなくて。
良く言えば柔軟、所詮不確定。どろどろに濁り泥むこともあるということ。
閉ざされた空間には己の感情が増幅します。
他人の喜怒哀楽は本当に大事なのです。いらない気をまわして、逆に相手を深く傷つけてしまう。
何回も続けてきた。一番近い人とかに。
ごめんなさい。でも、本当に大事なのです。ごめんなさい。
それでも、それでも「貴方は、いつかぎりぎりの状況で逃げる。」
それは呪縛。彼を踏襲する限り、それが続く。
結局大事なのは、他者の感情なのか?それとも、それを劇場で眺めハンカチを握る未だ見ぬ自分なのか?
わかりません。
言葉は所詮、閉ざされているから。躁鬱はたぶん、本当に抱えている。
狂いに近く、正常に乏しく。それでもまともであることは、幸福だと。
這いつくばってでも、それが幸福だと。平凡な優しさを、愚鈍な幸福願望者でいたい。
普通の、分相応なものを抱えた人間に。色々長けながら、欠けながらの己も。
いつでも、自分の涙を愛していたいのです。