初めて携帯で更新してみます。少し違ったとりとめない書き方もします。何だかすぐには眠れないので。
今日『消失』を見に行きました。まあ受験カウントダウン状態で何やってるんだって話ですが。面白かったです、とか、そういう話はまた別の時にするとして。
今夜書きたいのは主に別のことで。早い話卒業のことです。
明日が卒業なわけでして。小学校の時のソレと今回来るだろうソレとは別物に感じます。無論長年親しんだ『N』を卒業することや、訪れるだろう生活環境の劇的な変化(順調に合格したらですが)への予感も感じ方の違いの原因でしょうが、自分の中ではそれよりも『高校』を卒業するということ自体に大きい意味があるのではないのかと推測します。
つまり、「あー、これで“物語”の一番美味しい場面の一つが終わっちったなー」ということです。
恋人もできず。
それこそ宇宙人や未来人や異世界人や超能力者に出会うこともなく。ジュブナイルティーンエイジャーの世界も足早に己が過ぎたということ。
『彼女』が欲しかったというよりも『彼女がいるような空間』が欲しかったんだと。恋に恋する舞台をつくりたかったんだと。でも続くエトセトラはかくも叶わず。
だが、するとこの六年間の舞台ははたして不満だったか?欠陥だったか?青い鳥、あるいは主演が大根な演技をしただけではないのか?今の時期に映画を見に行ったのは、積み木のような青春という題名の一シーン?それとも偶像崇拝
自分がアニメーションや小説の行間やコマの配列に見ていた世界にどれほど近付けたのか?珍妙なノスタルジーを抱えたフィクション人間たる己は“物語”の夢を見続けるのか?そもそも何故それを求める?コンテクストの中の世界に焦がれ続けるのか。
似たような夢に囚われて、そのまま眠り続けてしまったような人間を知っていて、はたして将来同じ轍を踏むのか、それとも満足できるだけの“物語”を綴れるのか?
そのための歩き方は、能力は、運の影響の大きさは?どれぐらいの規模の“物語”なら己の矮小なる手に届く?いつ足を踏み出す?
不安で、臆病で。でもそれは何故?ひょっとして私は自身よりも、自身の――。でもそれも役者の詭弁、訳者の欺瞞?
とりとめもなく。
私は過去とか感情とかそういう面に対する恥ずかしさを感じるんです。男だからというのもあるかもでしょうが。その癖にこうも感情に流されやすくもあるんで(夜だからというだけでその目盛がプルプル振れる程に)、葛藤だらけなんですが。
卒業前夜。全ての郷愁と曖昧言語空間の中。
でもこの感情は少し残したいかな、と思って。何かの布石になればいいかと。したためて。
でわ。おやすみなさい。